Story1-⑮:「自分史」で語るしかない自己

アンソニー・ギデンズも、ウルリッヒ・ベックがいうように、「再埋め込み」のない状況が進展することを、つぎの内容で同様に主張しています。

伝統的で封建的な社会では、人びとは地域社会の集団や階級などの制度に組み込まれていました。

そこでの人生における選択は、その集団や制度のルール・価値観によって決められていました。

しかし、近代社会になると、そのような拘束から解放され、個人は自由になります。

ただ、そうは言いながらも「単純な近代化(第一の近代)」では、人びとは新しく生まれた中間集団に組み込まれていきました。

そして、その一員として、自分が何者であるかを語ることができました。

自分の家族の話や会社の話をすることによって、自分が存在する意味(アイデンティティ)を説明できたのです。

確かに、私も会社に勤めていたときは、会社に行けば家族の話をして、帰宅すれば会社で何があったか、を話していました。

個人と家族や会社との帰属関係が安定していたからこそ、このような状況が生まれていたのかもしれません。

ところが、「再帰的近代化(第二の近代)」が進むと、個人と中間集団との関係が希薄になっていきます。

そうすると、家族や会社の話をする意欲や機会は減退します。

人びとは何らかの集団の一員として、自分を語る機会を逸するのです。

とすれば、私たちは、何をもって自分を語れるのでしょうか。

それは、これまで生きてきた自分の生活史(自分史)や現在の自分の状況をもって語るしかないのです。

自分が何者であるか、自分が存在している意義(アイデンティティ)はいったい何なのか、その問いに答えるために、私たちは内省的に自分をかえりみて、他人に堂々と言えるように自分史を作りかえていくしかないことを、ギデンズは主張するのです。