Story1-23:自分を再帰的に見つめ直す
〈本来あるべき姿の個人主義〉と〈行き過ぎた個人主義=利己主義〉のどちらの価値観を基盤において集団やネットワークが形成されていくかによって、二つの相反する社会が構築されます。
この事象は、「安定成長期」(第一次オイルショックからバブル経済崩壊後までの期間)に形成された、リアリティ感が欠如して物事の本質が見極められない「リアル乖離社会」とのつながりでみると、つぎのようにも説明することができます。
「リアル乖離社会」で発生したさまざまな問題を、もっとも敏感に感じていたのは、一般の人びとであった。彼らはその問題性を深くかえりみて、このままの社会で良いのか、自分の生き方(生活史)を変えていかなくてはいけないのではないだろうか、という問題意識をもっていた。それが、1995年に発生した「阪神・淡路大震災」をきっかけにして、1人ひとりのボランティア行動であったものが、集団化・ネットワーク化することによって社会に認知された。
これは、まさしく「リスク社会」にみんなで対応するための再帰的な動きであると指摘できます。
この再帰的な動きが、「リアル密接社会」への道筋を開いたのです。
一方で、「リアル乖離社会」でさまざまな問題を引き起こしてきた「利己主義」は、「リアル密接社会」の形成が始まることによってなくなってきたかというと、決してそのようなことはありません。
逆に人びとの関心となる対象が“ヒト”に移ることにより、陰湿化して根強くひろがってきました。
「利己主義」は、現実の生活との関係が乖離していた状況から、密着した関係に移行するなかで、「リアル乖離社会」を「リアル同調社会」へと形を変容させて、しぶとく生き残りひろがってきたと言えるのではないでしょうか。
当然のことながら、私たちは「リアル密接社会」への構築に取り組んでいかなければいけないのですが、それは個人の価値観のもち方にかかっているのです。
すなわち、いかにして〈本来あるべき姿の個人主義〉を身につけることができるか、まずは再帰的に自分を見つめ直すことから始めなければいけません。
Story1-22:二つの分かれ道
「低成長期」(バブル経済崩壊後)を迎えると、現実の生活と密接して生きていかなければならない流れが強くなっていきます。
その流れを背景にして、集団やネットワークの形成が行われる場合には、二つの分かれ道が存在します。
一つは「リアル密接社会」につながる道で、もう一つは「リアル同調社会」へつながる道です。
「リアル密接社会」とは、現実の生活との密着度が高まるほど、他人との交流のなかで、共生と歓喜の気持を分かち合い、個人の主体的な自覚が形成されていく社会のことです。
個人の権利や自由を尊重して、個人の意義や価値を認め、個人が確立することを重視する、〈本来あるべき姿の個人主義〉の価値観を基盤にして構築される社会です。
個人の意義や価値を認めるということは、自分だけでなく、他人の意義や存在価値も尊重するということです。
「リアル同調社会」とは、現実の生活との密接度が高まっていけばいくほど、周囲の動きに同調する動きが強くなり、人びとが主体性を失っていく社会のことです。
〈行き過ぎた個人主義〉として「リアル乖離社会」ですっかり根づいた「利己主義(エゴイズム)」を基盤にして構築される社会のことです。
その社会では、他人のことをいっさいかえりみないで自分のことだけを考えて行動する価値観、他人なんかどうなっても良い、自分の身さえ守れれば良いという価値観が醸成されるのです。
Story1-21:目的のない若者の貯金
私が、現在の大学生のことで、ある事実に驚いたことがあります。
それは多くの学生が貯金をしているということです。
そして、その目的が何か明確にあるわけではなく、何となく不安だから、アルバイトをして通りあえず貯金をするという学生がいることです。
私も、大学生のころ、アルバイトをしていました。
ただ、夏休みに旅行に行くための資金稼ぎなど、目的がありました。
したがって、旅行にいけば、アルバイトで稼いだお金の残高はなくなります。
貯金するという感覚をあまり持ち合わせていなかった記憶があります。
現代の若者を、夢がないとか、人生は楽しいのだろうかなどと、批判する人がいます。
とくに、高度経済成長期を過ごした人は、そう思うかもしれません。
私もそう思っていた一人でした。
しかし、それは現代の若者のせいではないのです。
彼らは、「低成長期」(バブル経済崩壊後)に生まれて、育ってきました。
現実を、そして足元を見すえて堅実になるしかないのです。
逆に、そういう若者を作り出しているのは、新しい社会モデルの構築に挑戦しない大人かもしれません。
若者に夢を与えられず、遠くを見すえて進むべき方向性を定める、“羅針盤”を働かせる環境づくりに取り組もうとしない大人たちこそ、本来批判されるべきなのです。
Story1-⑳:個人の再構築
人びとを安定へと導く、集団化、あるいはネットワーク化を進めていくうえで、まず取り組まなければいけないことがあります。
それは、個人の再構築です。
個人の価値観・倫理観を鍛え直すということです。
「安定成長期」(第一次オイルショックからバブル経済崩壊までの期間)に、行き過ぎた「情報社会化」により、過剰な欲望が創出され、リアリティ感の欠如した社会が生みだされました。
その社会を、「リアル乖離社会」と名づけます。
ただ、「低成長期」(バブル経済崩壊以降)を迎えると、経済が停滞するなかで、将来の生活をどうするかという課題を、人びとは突きつけられます。
そうなると、浮かれて現実から乖離している場合ではありません。
足元をしっかりみて、不安と闘っていかなければいけません。
Story1-⑲:新しい社会モデルへの挑戦
戦後の日本を振り返ってみると、「再埋め込み」のない状況が、現在の日本社会でも着実に進んできたと言えるでしょう。
そして、これからも間違いなく進展していくでしょう。
ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが唱える「リスク社会」「個人化」や「脱埋め込み」「再埋め込み」の考え方は、社会全体のこれからの基本的な流れを長い目で推測するうえで、的を射た主張であるといえます。
しかし、感心ばかりしているわけにはいきません。
彼らは「再埋め込み」のない状況がこれからも進んでいくことに対して、警鐘を鳴らしているとの認識に立つべきです。
ベックは、「再帰的近代化(第一の近代)」は、リスク社会がもたらす結果に、自己対決していくことを意味していると説明します。
このベックの警告から、私たちは、新しい社会モデルづくりに挑戦しなくてはいけない時期を迎えていると考えなければいけません。
それは、「再埋め込み」のない「個人化」が進展していくなかで、人びとを安定へと導く、集団化、あるいはネットワーク化をどのように進めていけばよいかという、難問に対して向き合っていくということです。
Story1-⑱:「モデルなき時代」に身をおく私たち
高度経済成長が終わりを迎え、「安定成長期」(第一次オイルショックからバブル経済崩壊までの期間)に入ると、徐々に個人と中間集団との関係が希薄になり始めます。
その流れが「低成長期」(バブル経済崩壊以降)に入ると、本格化します。この動きは、「再帰的近代化(第二の近代)」が「安定成長期」において始動して、「低成長期」に本格化したと言いかえることができます。「脱埋め込み」のみが進み、「再埋め込み」のない状況が、着実に進んでいったのです。
ここでは、高度成長期のように、国家主導により再埋め込み先が手当されることはありませんでした。
第一次産業から第二次産業への移行時には、国も手当てできましたが、第二次産業から第三次産業への移行時においては、手当てできる術をもっていませんでした。
また、「単純な近代化(第一の近代)」の社会では、人びとが安定を確保できる、新しい制度や中間集団が生まれましたが、「再帰的近代化(第二の近代)」の社会では、同様の動きを見いだすことはできません。
いわゆる「モデルなき時代」に、私たちはいま身をおいているのです。
新しい社会モデルを構築できていない状況が、延々と続いてきているのです。
Story1-⑰:戦後の日本における「再埋め込み」
ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズが言うような「再埋め込み」のない状況は、現在の日本でも進んでいるのでしょうか。
戦後の日本を振り返ることにより、確認してみましょう。
戦後の日本で、まず「脱埋め込み」と「再埋め込み」の動きが顕著にあらわれたのは、高度経済成長を実現するために進められた工業社会化の過程においてでした。
当時、池田隼人内閣の「所得倍増計画」で代表される国家主導による工業開発計画が実施されました。
この計画は、「東洋の奇跡」と呼ばれるほどに成功を収め、日本は戦後からの復興を成しとげます。
その背景では、大規模な社会移動が発生しました。
農業従業者から賃金労働者への職業移動と、それにともなう都市部への人口移動です。
農業部門(第一次産業)からの「脱埋め込み」、そして工業部門(第二次産業)への「再埋め込み」を進めることにより、戦後の日本社会の改造計画は成功を収めました。
国民の所得の増加により、中流階級が増え、収入面で安定した生活を送れるようになりました。
また、「高度成長期」を通しての近代化によって生まれた制度や中間集団に人びとは組み込まれ、その一員として、社会との関係においても安定性を確保しました。
高度経済成長は、「脱埋め込み」から「再埋め込み」への動きが、見事に実現したことから成しとげられたと言えるのです。
これは、ベックとギデンズがいう「単純な近代化(第一の近代)」によって起きた社会変容に相当するものです。