Story1-⑯:自己内省的な近代化

現在多くの人が、FacebookTwitterInstagram・blogなどのSNSを通じて、自分を語っています。

家族や会社の同僚など身近な人たちに、自分を語れないとなると、誰に語れば良いのでしょう。

今や、SNSという、まさしくその要望に応えてくれる媒体が存在します。

自分のことを語りたい(自己顕示)という背景には、他人に認められたい(他者承認)という欲求があります。

他人に認められて初めて満足できるのです。

自分の存在している意味を確認できるのです。

現実の世界で充実(リア充)している自分を、非現実な世界であるインターネットの空間を通じて語るわけです。

相手がどのような個人なのか、とくに特定することもなく語りかけます。

一人でも多くの人に承認してもらうには、こんな好都合の媒体はありません。

時空間の無限の拡がりのなかに社会関係を再構築するという、アンソニー・ギデンズの主張につながる動きです。

 

ウルリッヒ・ベックは、「再帰的近代化」のことを「自己内省的な近代化」とも呼びました。

「内省」とは、深く自己をかえりみることです。

再帰的近代化とは、近代化によって生みだされた結果をかえりみて、その修正の方向性を社会の内面に取り込み、社会の特性を変えていくことである」と説明できます。

この文章のなかの「社会」を「自分」に読み替えてください。

内省的に自分史を作りかえていくという、ギデンズの主張と一致します。

ベックが「再帰的近代化」の対象を社会レベルで説明しているのに対し、ギデンズは個人レベルで説明しているのです。

個人レベルでも、「再帰的近代化」は進んでいるのです。

自己というものは、集団の一員として形成されるのではなく、個人が自分自身をかえりみることによって形成されていくことを主張します。

やはり、ギデンズもベックと同様、何らかの集団に「再埋め込み」されることにより、人びとが安定を取り戻すことを想定していません。

ベックがいう「再埋め込み」のない状況が進むことを、裏書きしているのです。

Story1-⑮:「自分史」で語るしかない自己

アンソニー・ギデンズも、ウルリッヒ・ベックがいうように、「再埋め込み」のない状況が進展することを、つぎの内容で同様に主張しています。

伝統的で封建的な社会では、人びとは地域社会の集団や階級などの制度に組み込まれていました。

そこでの人生における選択は、その集団や制度のルール・価値観によって決められていました。

しかし、近代社会になると、そのような拘束から解放され、個人は自由になります。

ただ、そうは言いながらも「単純な近代化(第一の近代)」では、人びとは新しく生まれた中間集団に組み込まれていきました。

そして、その一員として、自分が何者であるかを語ることができました。

自分の家族の話や会社の話をすることによって、自分が存在する意味(アイデンティティ)を説明できたのです。

確かに、私も会社に勤めていたときは、会社に行けば家族の話をして、帰宅すれば会社で何があったか、を話していました。

個人と家族や会社との帰属関係が安定していたからこそ、このような状況が生まれていたのかもしれません。

ところが、「再帰的近代化(第二の近代)」が進むと、個人と中間集団との関係が希薄になっていきます。

そうすると、家族や会社の話をする意欲や機会は減退します。

人びとは何らかの集団の一員として、自分を語る機会を逸するのです。

とすれば、私たちは、何をもって自分を語れるのでしょうか。

それは、これまで生きてきた自分の生活史(自分史)や現在の自分の状況をもって語るしかないのです。

自分が何者であるか、自分が存在している意義(アイデンティティ)はいったい何なのか、その問いに答えるために、私たちは内省的に自分をかえりみて、他人に堂々と言えるように自分史を作りかえていくしかないことを、ギデンズは主張するのです。

Story1-⑭:「再埋め込み」のない状況の進展

ウルリッヒ・ベックは、「再帰的近代化(第二の近代)」における「個人化」は、何らかの集団に「再埋め込み」されることのない解き放ちであると説明しています。

「再埋め込み」のない状況が進展するのです。

個人を守ってくれていた中間集団との関係は希薄になり、人びとは社会にむき出しになります。

リスクは、直接個人に降りかかってくることになるのです。

このままでは、決して安定した生活を確保することはできません。

確保するためには、リスクに負けない強い自分を作らなければいけませんが、誰でもできるわけではありません。

 

一方、アンソニー・ギデンズは、「再埋め込み」は、「時空間の無限の拡がりのなかに再構築すること」と説明しています。

この説明からは、ウルリッヒ・ベックと同様に、何らかの集団に「再埋め込み」されることを想定しているとは思えません。

たとえば、グローバリゼーションにより拡大するネットワーク、またインターネットを通じてのネットワークなど、集団というよりはネットワークに個人が組み込まれることによって、「再埋め込み」が進んでいくというイメージが浮かびます。

Story1-⑬:「第二の近代」で「再埋め込み」は進んでいるのか?

近代化にともなう「脱埋め込み」から「再埋め込み」への動きについては、「単純な近代化(第一の近代)」と「再帰的近代化(第二の近代)」の二つの段階で説明しました。

「単純な近代化(第一の近代)」では、伝統的で封建的な制度や集団からの「脱埋め込み」が進み、新しく生まれた近代的な制度や集団への「再埋め込み」が実現して、人びとは安定した生活を確保しました。

それでは、現在私たちが身をおいている「再帰的近代化(第二の近代)」の社会では、どうなっているでしょうか。

この社会では、これまで説明してきた通り、「単純な近代化(第一の近代)」によって新しく生まれた近代的な制度や集団からの「脱埋め込み」が進んできました。

問題は、その後の「再埋め込み」が進んでいるかどうかです。

進んでいるとすれば、どのような形で進んでいるか。

すなわち、注意しなければいけないのは、その「再埋め込み」が、人びとを安定した状況へ導いてくれているのか、ということです。

Story1-⑫:第二段階の「脱埋め込み」の発生

「単純な近代化(第一の近代)」で発生した「脱埋め込み」の状況は、近代化がさらに進むことにより、ふたたび生じます。

第二段階は「再帰的近代化(第二の近代)」によって発生した「脱埋め込み」の動きです。

ちなみに、アンソニー・ギデンズは、私たちの今日の世界を、高度化した近代社会という意味で「ハイ・モダニティ」あるいは「後期モダニティ」と呼んでいます。

これは、「再帰的近代化(第二の近代)」に相当するものです。

絶えることのない「個人主義化」や「情報社会化」が基盤となって進展したさらなる近代化は、近代社会がみずからうみだした、国民国家・階級階層・市民社会・雇用労働・核家族などの新しい制度や集団から、人びとが脱け出すことをうながす状況を作りだします。

それは、本人が望む、望まないに関係なく、会社や地域社会などの中間集団や家族からの離脱が進みます。

それにより、中間集団や家族との関係が希薄になり、帰属関係のゆらぎの問題が発生しました。

このようにして、第二段階における「脱埋め込み」の状況が進展するのです。

しかし、「脱埋め込み」の動きが進展するのみでは、人びとは不安定な状況に追い込まれます。

それでは、人びとを安定させるための「再埋め込み」の動きは、現在の私たちの世界で起きているのでしょうか。

起きていれば、安心するのですが。

Story1-⑪:第一段階の「脱埋め込み」から「再埋め込み」へ

アンソニー・ギデンズは、近代化の進展にともなって、「脱埋め込み」から「再埋め込み」への動きが、二つの段階をへて発生したことを説明します。

 

まず、第一段階は「単純な近代化(第一の近代)」によってうまれた状況です。

18世紀から19世紀にかけての西欧では、産業革命や市民革命などの社会変革をへて、近代社会が誕生しました。

資本主義や民主主義、そして個人主義自由主義という思想および運動が原動力となって、近代化が進んだのです。

それは、工業化を前提にした「産業社会」の誕生でもありました。

この第一段階の近代化である「単純な近代化(第一の近代)」によって、人びとは、特権階級を最上位におく差別的な身分制度や、宗教に支配された非科学的・非合理的な世界観、地縁・血縁で強く結ばれた村落共同体など、伝統的で封建的な制度や集団に埋め込まれた状態から脱け出しました。

ただ、脱け出しただけではなくて、今度は新しく生まれた近代的な制度や集団である、国民が主体となって形成する「国民国家」、職業や学歴・財産・収入などを同じくする人びとで形成される「階級・階層」、市民としての自主性や責任を自覚する個人や家庭を基盤にした「市民社会」、企業へ勤務するなどの「雇用労働」、そして夫婦とその未婚の子どもで構成される「核家族」などに再度埋め込まれていき、安定した生活を確保しました。

これが、「単純な近代化(第一の近代)」による「脱埋め込み」から「再埋め込み」への動きです。

Story1-⑩:「脱埋め込み」と「再埋め込み」

再帰的近代化(第二の近代)」によって明らかになった社会変容の具体的な現象として、ウルリッヒ・ベックの「リスク社会」と「個人化」をみてきました。

ベックと同様に、「再帰的近代化論」を唱えるアンソニー・ギデンズが主張していることにも、耳を傾けてみましょう。

ギデンズは、「再帰的近代化論」のなかで、多くの論点を提示しています。

そのなかから、「帰属関係のゆらぎの問題」について、大変参考になる考え方を紹介します。

 

それは、「脱埋め込み」「再埋め込み」です。

 

「脱埋め込み」の言葉は、「脱」と「埋め込み」の二つの言語で構成されています。

すなわち、埋め込まれた状態から脱け出すことを意味します。

それでは、「再埋め込み」はどうなるかと言いますと、「再」と「埋め込み」で構成されていますので、再度埋め込まれた状態になることを意味します。