Story1-⑨:「個人化」の進行
ウルリッヒ・ベックは、個人が、近代化によって新しくうみだされた社会階級・家族形態・職業集団などの集団から切り離されて解放されていく過程を「個人化」と呼んでいます。
現在、近代化によって新しく生みだされた中間集団(階級・階層、会社、地域社会など)や近代家族(核家族)から、人びとは切り離されつつあるのです。
個人と社会をつなぐ中間集団との帰属関係が希薄になり、個人は社会にむき出しになります。
何かあったときは、中間集団や家族が個人を守ってくれましたが、それを期待することは難しくなりました。
極端にいえば、人びとは、自分の力のみで、「リスク社会」に立ち向かなくてはいけないというリスクにさらされているのです。
そこでは、選択の幅が広がった現代社会で、自分の判断でどれを選ぶかを決めて、道を切り開いていくことが要請されます。
そのためにも、その判断の基準となる価値観を、日ごろから鍛えることが大切です。
他人の価値観に合わせて周囲に流されているだけでは、「リスク社会」の荒波に飲み込まれるだけです。
Story1-⑧:近代的な制度や集団への帰属
「リスク社会」の到来は、社会的な問題に限る話ではありません。
私たち個人の生活や人生にもかかわってくる問題でもあるのです。
それを、ベックは「個人化」という言葉をつかって説明します。
人間は、近代化が進むと、封建的で伝統的な社会制度や価値観(たとえば差別的な身分制度、非科学的・非合理的な世界観、地縁・血縁で強く結ばれた村落共同体など)から解放されました。
人類は、個人の自由を手に入れたのです。
しかし、集団から解放されただけだとさまようばかりで、非常に不安定な状況におちいります。
そこで近代社会は、国民国家・福祉国家、階級・階層、会社、近代的な地域社会、近代家族(核家族)など新しい制度や集団をうみだしました。
そこに人びとは帰属することにより、安定した生活を維持することができるようになりました。
ただ、そのような新しくうみだされた仕組みは、いつまでも安定して存在しつづけているでしょうか。
近代社会は、近代化を進めるとともに、そのような仕組みを変容させてきました。
その結果、さまざまな問題が生まれ、うまく機能しなくなり、個人は改めて不安定な状況へおちいり、「リスク社会」を迎えることになったのです。
Story1-⑦:「リスク社会」の到来
チェルノブイリの原発事故が示しているように、私たちはいつ訪れてくるか分からない危険にさらされているのです。
その危険は国とか地域とか、その境界線を乗り越えておそってきます。
人間はみずからつくった最高段階の産物によって、リスクにさらされる社会に身をおいているのです。
近代化とともに発展した科学の力は、最終的には人間がコントロール(制御)できない作品を作りだしました。
何でも支配できる、何でもコントロールできるという人間の自信は、みずからがつくりだしたモノがうみだすリスクによって、打ち砕かれたのです。
すなわち、それは過信でしかなかったのです。
そして、このリスクは一部の人間が負うものではありません。
富裕者や権力者、貧困者などに関係なく、誰でもその危険にさらされるようになるのです。
それが、「リスク社会」です。
そして、リスク社会で明らかになった問題は、原発事故による放射能汚染だけではありません。
気候変動や環境破壊による災害の発生、グローバル化した金融市場の破綻、テロによる脅威、過剰な軍備拡大に対する不安など、さまざまな領域に広がっています。
一定の範囲におさまりきらない、いつおそってくるか分からないリスクに、誰もが現在さらされているのです。
Story1-⑥:科学の発展の皮肉な結果
第二次世界大戦後に進展した「産業(工業)社会」は、さまざまな技術を開発して、私たちの生活を便利にする製品をうみだしてきました。
たとえば、テレビ、自動車、パソコン、スマホなど、あげだしたらきりがありません。
このように私たちが生活するうえで困っていることを、技術革新によって解決してきました。
まさしく、科学の発展の結果です。
しかし、皮肉なものです。
その解決策自体が、今度は新しい問題を引き起こすようになったのです。
ウルリッヒ・ベックは、このような動きの象徴的な事例として、1986年にチェルノブイリの原子力発電所で起きた爆発事故を取り上げています。
この事故により、欧州の広範囲にわたり放射能汚染が観測されました。
ベックは、「原子力発電所は人類の生産能力と創造力の頂点に位置する」と言っています。
この「近代化の最高段階における産物」が、全世界を不安の底におとしいれたのです。
Story1-⑤:「再帰的近代化論」からのアプローチ
私たちは、いま、どうして自分の力のみで社会に立ち向かっていかなくてはならないような状況に、おちいっているのでしょうか。
その理由について、近代化がどのように進んできたかという視点から、明らかにしている研究者たちがいます。
そのなかから、ウルリッヒ・ベック(1944-2015)とアンソニー・ギデンズ(1938-)の「現代社会論」をより所にして、前述の「帰属関係のゆらぎの問題」について、色々と考えてみたいと思います。
ベックは、ドイツの社会学者です。
彼は、「リスク社会」という新しい現代社会の社会像を提示して、世界的に知られることとなりました。
ギデンズは、イギリスの社会学者です。
彼は、イギリスのブレア政権の政策ブレーンとして、「第三の道」を提唱したことでも、よく名前を知られています。
彼らは、「再帰的近代化論」を提唱します。
ベックは、近代化が「単純な近代化(第一の近代)」から「再帰的近代化(第二の近代)」へと、二つの段階をへて進んできたと説明します。
そして、「再帰的近代化(第二の近代)」によって起きた社会変容について言及していますが、そのなかから、代表的なものを二つ取りあげて説明してみましょう。
それは、「リスク社会」と「個人化」です。
Story1-④:帰属関係のゆらぎの問題
「成長型社会モデル」の機能低下に伴い、当然のごとく、地域集団や会社・学校などの「中間集団」と、個人の関係にも変化が生じます。
「中間集団」が個人を守ってくれるという機能は、徐々に低下していきました。
個人と「中間集団」との信頼関係が崩れつつあるのです。
両者の帰属関係がゆらいでいるのです。
最後の砦となる家族についても、核家族内での個別化が進み、家族間の関係が希薄化していくことなどから、同様の「帰属関係のゆらぎの問題」が指摘されます。
親密圏と社会圏の両方で、「帰属関係のゆらぎの問題」が露呈したのです。
私たちは、社会という大海原に、自分の櫂(オール)のみで船をこぎだしていかなければいけないのでしょうか。
ときにおそってくる荒波に飲み込まれないように、自分の力のみで立ち向かっていかなければならないのでしょうか。
しかし、それではリスクがありすぎます。
個人の帰属状況がゆらぐ現代社会において、個人の安定性を担保する方法はあるのでしょうか。
Story1-③:「成長型社会モデル」の機能低下
1990年代に入ると、バブル経済が崩壊して、経済の安定成長に終止符が打たれました。
当時の日本社会を支えていたのは、経済が成長することを前提につくられた社会モデルです。
これを、「成長型社会モデル」と呼ぶことにします。
その代表的な仕組みとして「福祉国家」や「日本的経営モデル」があります。
「福祉国家」とは、民主主義のもとで、国民生活の社会保障や社会サービスの整備・充実を主要な目標とする国家のことを言います。
「日本的経営モデル」とは、終身雇用・年功序列・企業別組合の制度を組み込んだ日本特有の企業経営のモデルのことです。
「成長型社会モデル」は、経済の成長がとまるとうまく機能しなくなります。
「福祉国家」はそれを支える財政基盤が、「日本的経営モデル」はそれを支える企業収益が脆弱になるからです。
そうすると、さまざまな社会問題が発生します。
地域集団や学校を含む地域社会における社会インフラの弱体化、そして会社によるリストラ(整理解雇)の横行や非正規雇用の拡大などの社会問題が進行しました。